2023/04/27 02:36
布地染色の芸術、中世イタリア、フィレンツェ染色職人ギルド「Arte dei tintori」(アルテ・ディ・ティントーリ)の歴史とは。
芸術の都イタリアのフィレンツェは、中世ルネサンスの時代に最もアートと文化が繁栄したとされる、ヨーロッパの古い芸術文化都市です。
MOMOZONO Arte della Sartoriaは、2016年から、ハンドメイドのブランド活動の拠点を、イタリアのフィレンツェに移しています。
この文章を今書いている日本人の私のMOMOKOは、MOMOZONO Arte della Sartoriaのデザインと仕立てを直接担当しています。
イタリアのフィレンツェは、レオナルド・ダ・ヴィンチやサンドロ・ボッティチェリなど数々の、有名なルネサンスのイタリア人芸術家が生まれた町としても有名です。
"『ダンテ、『神曲』の詩人』(1465年頃、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、フィレンツェ)by ドメニコ・ディ・ミケリーノ"
貴族や、世界的に有力な大富豪たちによって栄えられ続けてきたフィレンツェは、モードの都としても、その文化が同時に発展しました。
フィレンツェ出身で著名なファッションデザイナーといえば、サルヴァトーレ・フィラガモ、ロベルト・カバリなどがその代表です。
また、フィレンツェのモードの発展は、他のヨーロッパのファッション都市、ミラノやパリ、ロンドンなどで築かれていたモードの発展とは、若干異なる背景があります。
もともとイタリアは、ヨーロッパからの衣服生産の下請けを専門としてきた歴史があります。フィレンツェもまた、その下請けに中世から関わっていました。
仕立て職人、帽子職人、靴職人、宝石職人など、数々のモード文化に関わる職人芸術が、フィレンツェでは古くから発達しています。また中には、現在までその伝統が残っている職人芸術もあります。
"仕立て職人たちの作業風景、中世イタリア"
あまり多くの人に知られていませんが、過去のフィレンツェには染色職人という職種が存在していました。この染色職人は、中世に最も栄えたとされていて、彼らの技術の中には、公には公表できなかったともされる、魔法のような秘密の技術があったと言い伝えられています。この染色職人が染め上げる色には、他にはない特別な輝きがあったとされています。彼らの染める色には、まるでルネサンス絵画で見られる、神秘的で光に満ちたような発色があったとも例えられています。
素晴らしい芸術の才能があったとされる、レオナルド・ダ・ヴィンチなどと、全く同じ町で同時期に活動していたとされる職人たちの技術にはまた、やはり相当な熟練性と完成度があったことに、想定ながらにして伺うことができます。
"中世フィレンツェの染色工房のイラスト"
中世フィレンツェでは、特に古くから繊維産業がヨーロッパの中でも盛んでした。染色芸術は、この産業成長と関連し同時に発展していました。
そのためフィレンツェには、布地染色の高い技術を保持した染色職人が世界中から集まっていました。
「Arte dei tintori」(アルテ・ディ・ティントーリ)とは、13世紀から約2世紀に渡りイタリア、フィレンツェで活動していた中世ギルドの一つで、生地の染色職人たちの協同組合のことです。14世紀初頭の数年間、最大の素晴らしさに達したそうです。
「Arte dei tintori」(アルテ・ディ・ティントーリ)は、イタリア語で直訳すると「染色の芸術」という意味になります。
フィレンツェの産業で、ウールとシルクの繊維生産業は、当時の都市経済に大きな影響力を持っていました。
「Arte dei tintori」(アルテ・ディ・ティントーリ)は、この生産工程の染色活動に深く関連し発展していたことが記録に残っています。
"『Dyeing wool cloth』(ウール地の染色)(1482年、大英図書館、ロンドン ) from "Des Proprietez des Choses" by Bartholomaeus Anglicus"
この組織で最も重要なことは、職人の技術でした。
彼らの生み出す色は、多様性と安定感があり、発色の輝きが特に素晴らしいということが売りでした。
生地の色を固定するのには、多くのアンモニア水が必要であったため、これらの染色作業には悪臭と不快感がひどく、アンモニアにはもっぱら労働者の尿が使われていたそうです。
この過程の洗濯とすすぎには、大量のきれいな水が必要だったそうです。
"書籍『Trattato dell’arte della seta』(シルク芸術の工程)からのイラスト"
染色家たちの実験室は、タンク、洗面器、さまざまなサイズのバット、攪拌(かくはん)用の容器など、基本的な器材と、ボイラー、乾燥室の全てが収容できるような広い場所である条件が第一でした。作業中は、有毒なガスや煙も排出されるため、十分な換気が常にできる、風通しのよい環境であるということも必然だったそうです。
これらの染色作業には、塩分がほとんど含まれていない水を使用する必要があったと記録に残っており、中央に大きくアルノ川が流れる、土地環境の整ったフィレンツェで、染色業が特に発展したという理由は、全く偶然ではなかったようです。
彼らの仕事には、器材の使い方から容器の置き方まで、細かく複雑な秘密があり、高い技術を保持するためには相当な難しい訓練が要されていたようです。
このように、通常では考え出されもしないような厳しい条件と、複雑な工程で染色された生地は、非常に高値な額が付けられ、輸出品としても扱われていたそうです。
"書籍『Trattato dell’arte della seta』(シルク芸術の工程)からのイラスト"
フィレンツェの染色職人ギルドのカテゴリーは、当時3つのグループに分けられていました。
「Arte Maggiore」(アルテ・マッジョーレ)は、おそらくその中でも一番に組織化したグループで、布地を最も多様な色で染める技術を保持していたそうです。
「Arte Minore」(アルテ・ミノーレ)は、植物の根などから、染色活性成分を抽出して生地を染色させる、草木染めの研究に力を入れていました。特に、茜(アカネ)の根を使用した、幅の広い赤色の染色に特化していたそうです
"『フィレンツェの女学生と犬』(1560–70, The Walters Art Museum, Baltimore)by フィレンツェの画家"
「Arte del Guado」(アルテ・デル・グアド)もまた、別の植物から抽出された成分から染色する草木染め技術を保持していました。特に、西欧インディゴ染料の原料として、中世ヨーロッパで盛んに栽培されていた、細葉大青(ホソバタイセイ)、別名ウォードと呼ばれるアブラナ科の植物を使用した、濃度の豊かな青色染色を専門にしていました。
"細葉大青(ホソバタイセイ)、別名ウォードのイラスト"
日本の古い染色技術によくみられる傾向ですが、生地を赤色に染める方法は、このように茜の根を使用して染色するか、カメムシ科のカイガラ虫を煮出して作るかが、中世ヨーロッパでも一般的であったそうです。
茜から生まれた色は、若干トーンの低い茶色味を帯びた土着的な赤色であることに対し、カイガラムシから染められる色は、若干の紫味を帯びた上品な赤色で、別名、紅(くれない)色とも呼ばれています。
また、インディゴ染料から作られる青色は、日本では藍色として古くから親しまれている色でもあります。中世ヨーロッパでは、このように青色はウォードから作られることが主流でした。ウォードからは、当時最も貴重とされていた色が全て作ることができたので、非常に重宝されていたそうです。この青色からは、茜の赤色を混ぜて紫色が生まれたり、他の黄色の染料を混ぜて緑色にもなっていたそうです。
中世ヨーロッパでは、ウォードから作られる青色には「天の神性」という意味があり、名声や高貴さの象徴として、1200年から1600年にかけて製作された絵画で頻繁に描かれています。中世の絵画では、青いドレス、マント、アクセサリーなどを身に着けている肖像は、高貴な人、宗教的な人を表し、色の神秘性と貴重性を象徴しました。実際に、絵画で描かれているウォードの色には、可能な限り色を模範した、ラピスラズリやアズライトと呼ばれる鉱物が使われています。
"中世絵画で描かれるウォード色の衣装"
フィレンツェの染色技術で、特に貴重とされていた色は、「モラート」と呼ばれる、光沢のある漆黒色でした。
モラート色は、光沢のある、若干に茶色味を帯びた黒色で、正確にはトーンの落ちた赤紫色に近い色であるそうです。
この色は、アナログ写真の現像剤などで使われる、水性インクの一種である、鉄の没食子酸(もっしょくしさん)から生み出されていたそうです。モラート色の作り方には、タンニンとモール塩と呼ばれる硫酸鉄アンモニウム六水和物を、4:1の比率で反応させて製造されるなどの複雑な工程が入っており、かなり長いプロセスを踏まえる大きな作業であったそうです。
また、この色はフィレンツェで、とりわけに重宝されていたため、技術内容は、厳格に他へは秘密にされていたそうです。
16世紀にアメリカ大陸から輸入されたログウッドは、新しい黒色染料として多くの染色職人が取り入れたそうですが、当時フィレンツェの法律により、これらの新しい原料を使用することは禁止されていたそうです。
"モラート色の例"
赤色と緑色以外の色は、事実上に、どの色の染色技法にも独自の秘密があり、染色材料も自然植物、虫、動物など、一般的に知られていない様々な材料が用いられてたそうです。
染色作業を行う前には必ず、石鹸を溶かしたお湯で布地を煮出し、完全に脱脂する必要がありました。この工程には、十分な流水を使用しなければならなかったため、染色職人の工房は、フィレンツェの中心を流れるアルノ川のすぐそばであったことが多いようです。現在でも、フィレンツェのアルノ川沿いには、「染色家の経路」という意味の「Corso dei Tintori」(コルソ・ディ・ティントーリ)という路地が残されています。
"中世フィレンツェのアルノ川からの風景"
世代が変わるごと、代々受け継がれた、このようなフィレンツェの染色芸術は、残念ながら今では非常に減少してしまったようですが、今日の現代芸術やモダンデザインの元となるような基盤文化でもあります。彼らは技術的にとても貴重で重要な記録を残しています。
この中世フィレンツェの染色技術は、絵画の光のように鮮やかで持続性ある色を、大量生産できる色としても、その後技術開発で生産可能にしました。
彼らの開発した、良質な染色生地は、新たな国際的ニーズをも作り、世界市場に進化的変貌を生み出しました。
これら染色職人たちの熟練した技術と、代々の研究情報は、今日の新しい生地のテクノロジー開発に多大に貢献し、世界中から高く評価されています。
"中世の染色器材"
フィレンツェの染色職人の、自然植物成分と化学を融合させる、統合的でまた集合的に用いられていた技術からは、どことなく古いヨーロッパのウィッチクラフト(魔女術)に通じる感覚があります。しかしながら、布地の染色芸術の本来の目的は、ウィッチクラフトのオカルト的な目的というよりも、むしろシャーマニズム的な光(エネルギー)の創造プロセスに近い、バランスの取れたエネルギー表現を目的としていて、完全なる商業的実験です。
私は以前、元グッチの染色家の作品史料館(アーカイブ)を、個人見学させていただく機会がありました。
その染色家は、非常に芯のあるミステリアスな渋いおじいさんでした。彼にはまた、不思議な能力も備わっており、芸術的な感覚と技術が並外れて素晴らしかったという以上に、特別な霊的な感覚に鋭く長けていました。
いわゆる霊能者だと思います。彼は、他人の外見から、霊体(アストラル体)の情報も素早く読み取り、それらとコンタクトも取れる優れた才能を持っていました。
職人や、アーティストには霊感が宿っている、または宿りやすいというような話がよくありますが、それは本当です。
この染色家は、人の外見の色と感情を、染色の力だけで自由自在に操れる、本当に不思議な魔術師のような人でした。さらに驚くことは、彼の生み出すオリジナル作品は、常にハンドメイドであるという点でした。彼の染色過程は、生地が完璧な色の定着性を持った段階で、技術を大量生産可能な適用方法に進化させ、最終的に大量生産されるという流れでした。
彼のアイデアには、一度出したら世界中で他のブランドが、瞬く間に彼のアイデアを真似し、次のシーズンはトレンドとして世界流行するという、不思議な魔力がありました。
染色家の本人も、他人の感情や動作に非常に敏感で、周囲を上手にいい意味で洗脳できる、すごい能力を持っていました。
彼の染色した作品からは、力強い「生」の意識が心から伝わり、何か目に見えない霊的な力も宿っていました。
"『The Assumption of the Virgin』(1475-1476、ナショナル・ギャラリー、ロンドン)by フランチェスコ・ボッティチーニ"
フィレンツェは中世を栄えにその後、ウールの生産が乏しくなり、残念ながら、現代ではこの染色文化は、ほぼ衰退してしまいました。
いつの時代も、時代の変貌と共に仕事が無くなり、新しい仕事が誕生します。現代、私たちが直面している現実も全く同じです。
テクノロジーの進化の裏には、人間が長い間にわたって築き上げてきた実経験と技術研究が、この染色職人の例のように隠されているのです。現代では、衰退している職人文化も、新しいテクノロジーの開発や、ロボット、AIの開発プログラミングに参考にされ、適用されはじめています。
現在、過去、未来、時には本当は「今」しか存在しておらず、このような歴史も本当は現代の話であり、また未来の一例でもあるのです。
「歴史は繰り返す」とも言われることがありますが、このような時のない概念から考えると、今度は「全く新しい歴史を作りかえる」という未来サイクルに、全体的な流れが変わればいいと私は思います。
私たちは一般的に、テクノロジーが進歩した先に目が行きがちです。日本人という枠組は、世界ではテクノロジー化した別人種としての認識もあります。
新しい考え方や、最新の技術は何もないところから進化はしません。問題の根本に何があって、そことどう向き合い改善していくかを深く理解せず、テクノロジーの便利さだけに頼る生き方は、今後の未来に限界があると思います。
目の前の情報を常に本質で読み取り、理解、そしてそれから常に新たな光と息吹が生まれるような、本当に深いもの作りをこれからも続けていきたいと思っています。
長い文章でしたが、今回も最後まで読んでくださいまして、どうもありがとうございます。
MOMOKO
"『ヴィーナスの誕生』(1485年頃、ウフィツィ美術館、フィレンツェ)by サンドロ・ボッティチェッリ"